ゼミ旅行 of Okinawa in 2005
9月にゼミ旅行に行きました.昨年に引き続いて沖縄です.行程は以下の通りです.(クリックすると当該写真に飛びます)
1日目 伊丹空港→那覇市那覇空港→DFSギャラリア→豊見城市海軍司令部壕→那覇市牧志公設市場→国際通り→本部町オン・ザ・ビーチ・ルー(飲み会あり)
2日目 オン・ザ・ビーチ・ルー→ちゅら海水族館→うまい沖縄そば屋→今帰仁村結家さんのビーチ→東村つつじエコパーク(キャンプ)(一部飲み会)
3日目 つつじエコパーク→国頭村道の駅「ゆいゆい国頭」→亜熱帯ジャングルカヌーツアー→道の駅「ゆいゆい国頭」→沖縄最北端辺戸岬→オン・ザ・ビーチ・ルー(飲み会あり)
4日目 オン・ザ・ビーチ・ルー→那覇空港→伊丹空港
<集合写真>
宿泊したオン・ザ・ビーチ・ルー(http://www.luenet.com/)のビーチにて
(YM君のカメラデータより)
亜熱帯ジャングルカヌーツアーから生還したゼミ生の勇姿(後ろはアハダムのダム湖)
国頭ツーリズム協会(http://www8.ocn.ne.jp/~kunitabi/)主催のツアーに参加
<もっとみたい>
自然なポーズをとるように要求.要求にぎこちなく応えるゼミ生たち.
那覇空港からおもろまちのDFSギャラリア(戦跡編参照)へのバスにて
2名は離れた席になってしまったので写せなかった.ごめん.
小禄の海軍司令部壕(戦跡編参照)を見学した後,国際通り近くの牧志の公設市場2Fの食堂で夕食.
初日からヘビーな飲み会になってしまった.翌日の証拠写真付き.
(左)昨夜は飲み疲れた〜.(右)イルカのプールと伊江島
(左)ウミガメ(右)マナティ
お昼を食べたおいしい沖縄そば屋の「地鶏黄金そば」とそば屋の隣の家の犬(琉球犬だろうか?)
結家さん(http://monpanoki.web.infoseek.co.jp/musubiya.htm)のプライベートビーチ
大阪出身の女将さんのご厚意でしばし楽しませていただきました.ありがとうございました.
キャンプ(宮里藍さんのふるさと東村のつつじエコパーク<http://www.eco-park.com/>)
我がゼミの完全貸し切り状態.管理人さんにはいろいろご配慮いただきました.レストランのご飯おいしかったです.ありがとうございました.
亜熱帯ジャングルツアー(主催:国頭ツーリズム協会<http://www8.ocn.ne.jp/~kunitabi/>)
午前中はジャングルのトレッキングと自然観察(ヤンバルヤマナメクジ,キノボリトカゲ,リュウキュウハグロトンボ,ナンバンギセル,ハナサキガエルなど)午後は,アハダムを起点にカヌーと泳ぎによる沢登り.近隣の一帯は,米軍のサバイバル演習に使用されている.
(左)我が隊に捕獲されたキノボリトカゲ.食用に供されたことはいうまでもない(ウソ).色が茶色から緑に変わっている.
(右)原生林の中の昼なお暗き道を行くゼミ生
(左)暫時休憩 (右)ガイドをつとめてくださった崎濱さんの話に耳を傾ける
カヌーツアーの起点となったアハダムにて.
(左)上陸.我々はアハダムからカヌーのある地点までダム湖を泳いでやっとたどりついた*註.
(右)カヌーで奥地まで行く.(YM君撮影)
(左)激流をものともせずカヌーで遡行するゼミ生の勇姿(YM君撮影)*註
(右)岩をぬいながらカヌーを操る.一つでも操船を誤ったら岩に激突する(YM君撮影)*註
(左)このあとカヌーも入れない秘境に到達.ここからは頼りのカヌーも捨てて自らの手足で前進しなければならない*註.
(右)泳いだり,水の中を歩いたりしながら遡行.(YM君撮影)
(註)
キャプションにはかなりの脚色があります.実はアハダムからカヌーのある地点まではボートで快適にいきました(証拠写真は下).カヌーを降りてから,しばらく泳いだり,歩いたりして上流に遡行しましたが,大変楽しかったですよ.アユをとったりしました.(当然その後川に帰しましたが)
左はYM君撮影.
(左)北を望む.夕焼けと遠くに見える与論島 (右)東シナ海に沈む夕日
(左)辺戸岬でのゼミ生たち
(右)辺戸岬と月.中秋の名月1日前.地元のおじさんたちに酒盛りに誘われたが,車で移動していたため,丁重に辞退.
那覇経由で帰阪.下の写真は沖縄自動車道伊芸サービスエリアの展望台から金武湾を写したもの.
<沖縄戦跡編>
沖縄戦最大の激戦地.アメリカ軍はこの一帯の陣地群を落とすのに1945年5月13日から19日まで1週間かかった.前進距離は1週間でわずか約500m,攻撃にあたった海兵隊はこの戦闘で死傷者2,662名以上,PTSD患者1,289名をだす.わが日本軍も数千の戦傷死者をだしたといわれる.合掌.いまは貯水タンクがおかれている.
展示室
左:太田實少将(第四海上護衛隊(四海護)司令官兼沖縄方面根拠地隊(沖根)司令官)の6月6日海軍次官宛の訣別電文「沖縄県民斯く戦えり.県民に対し後世格別の御高配を賜らんことを」
右:山田弘国中佐の遺書.
6月12日夕刻「発 沖根 昭和20年6月12日 1619 これにて通信連絡を絶つ」と打電,この後,6月13日司令官以下自決したものと推定されている.
昇降廊(地下壕に降りる階段),司令官室の壁面,「醜米覆滅」の文字がある.太田少将はここでピストルにより自決したといわれている.近くの幕僚室には,幕僚たちが手榴弾で自決した際の破片の跡が残る.銃弾による自決ではないということから,壕内に戦闘が及び残弾を打ち尽くしての自決と推定される.
沖縄戦に関する参考URL:http://www.h2.dion.ne.jp/~o.senshi/
http://www.francis-hope.com/ww2/